白峰雑感 保元の乱に敗れた崇徳上皇の末路【名誉院長 國重昭郎】

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 天皇陵のほとんどが京都・奈良に位置していますが、珍しくも香川県坂出市に四国唯一の天皇陵があるのです。当院の名誉院長、大先生、昭郎は80歳代後半の高齢で、コロナ禍もあって外来診療から徐々に引退しましたが、白峰雑感を香川県医師会誌第76巻第4号、通巻399号に投稿、2023年10月、p21-23に掲載されましたので一部改変、転記します。

 栄枯盛衰はこの世の常、生者必滅は理なり。たれか百余年の行体をたもつべきや、ただ路地の露のごとし。
 この俗世にて栄華を極め、権力の座にあられた高貴なお方ほど末路はいとあわれなり。
 いつの時代でも、悲劇の主人公は庶民の心をとらえて離さない。筆者もそのとりこの中の一人である。
 香川県坂出市に所縁のあるお方で、末路が哀れに偲ばれる歴史上の人物には、万葉の歌聖・柿本人麿(690年頃、沙弥島ナカンダ浜に上陸)、文化人で讃岐国司・菅原道真(在任期間886~890年)等が上げられるが、特に、保元の乱後、崇徳上皇の配流の地、坂出での幽閉生活8年間が悲惨で、今日までも坂出市民の深奥に、暗く重くのしかかっている。

 

 四国88カ所の中でも、特に第81番札所である綾松山、先手院、白峰寺が、私の心を揺さぶり、無常と幽玄と信仰の世界へと導くのである。そこが私の生まれ故郷であり、現在住んでいる所でもある坂出市内にあるからだけではない。
 親子兄弟の骨肉の争いに敗れた悲運の人皇、第75代天皇であられた崇徳上皇の御墓「白峰御陵」があるからである。
 老松古杉が鬱蒼と生い茂り、昼間さえ光も透さぬ静寂の地である。小鳥の囀りも、なぜか悲しく又鋭く稚児が嶽に響く、崇徳上皇の泣き声か、怨霊の叫びか、遠く西行法師(1118年~1190年、上皇没後3年の1167(仁安2)年の秋、白峰御陵に参詣)の心を偲び、上田秋成(1734年~1809年)の『雨月物語』巻之一、『白峰』のドラマ(崇徳院の亡霊に対峙する西行との怪談)が、私をして平安時代の世界へと没入させる。
今宵も白峰御陵に無念の梵鐘が深々と響く。

 ここに絶世の美女あり。世にクレオパトラか楊貴妃か又は小野小町かと言われるが、私は、第一に待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ、崇徳天皇と後白河天皇の御母上)を上げねばならない。「端正美麗、眼の及ぶにあらず」と詠歓された璋子が、保元の乱の遠因、近因となったからである。
 保元の乱こそ、摂関政治から院政へ、更に武家政治への橋渡しの始まりとなった。その歴史的意義は極めて大きい。
 この乱は、皇位継承問題や摂関家の内紛が表面化した、崇徳上皇と弟の後白河天皇の異父兄弟戦争である。1156(保元元)年7月11日の早暁、平安京の東方、先手必勝の策をとった後白河天皇側のあっけない勝利であったが、その後、都は混乱し、世情は騒然となった。
そこに、待賢門院璋子の不義が絡んでいた(各史家の略一致するところである)。平安末の後宮に咲いた艶麗な花は、鳥羽天皇寵愛の中宮にして、義父・養父の白河法皇の鐘愛を受けていた。崇徳天皇は白河法皇と璋子との密通で産まれたのだ。
白河法皇は77歳で崩御するまで、堀河天皇を8歳で、鳥羽天皇を5歳で、崇徳天皇を5歳で即位させ、43年間院政。天下三不如意(鴨川の水害、双六の賽の目、山法師の強訴以外は全て思い通りになる)と権威を奮った。
鳥羽上皇は、崇徳天皇を「叔父子」(叔父であり、子どもでもある子)と呼び疎んじた(『古事談』)。鳥羽法皇と崇徳上皇の対立の基因の一つが、白河法皇の逸脱した性道徳にある、と角田文衛(考古学と歴史学を統合した「古代学」を提唱、平安博物館(現・京都文化博物館)創設者)は著書『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書281)で語っている。

 1156(保元元)年8月、崇徳上皇は、勅命により、永久追放となって配流地・讃岐国阿野郡の松山の津(現坂出市高屋町、『綾・松山史』の編纂記念として、現地に「松山津」の石碑が建立されている)に御着になった。御伴には中宮・兵衛佐局聖子他女官2人、守護・警備の讃岐国司・藤原季行と十余人の兵が乗船していた。御迎えは、館が近くに在った在庁の庁官の野大夫・綾高遠(あやのたかとう)他である。
 勅諚があって10日余り、讃岐国は、罪人とはいえ上皇という最高位のお方の故、受け入れ体制も短期間には整わず、とり敢えず綾高遠のお館、松山の堂、後の人、雲井御所(くもいごしょ)と申し上げる、に入られる(高松藩主松平頼恕(よりひろ)公により跡地が推定され、1865(天保6)年、現在の林田の地に雲井御所之碑が建立された)。

 上皇思うに、この一か月間が夢幻のごとく過ぎた。あのとき、源為義の策を受け入れ、先手をうって大内裏に攻め入るならば、立てこもる白河殿(現京都市左京区岡崎公園付近)のあの夜討(保元元年7月11日の早暁~保元の乱)の惨敗に期さなかったものを、かえすがえすも今となっては……
 しかし、後白河天皇は、朕にとっては異父兄弟とはいえ、血を分けた弟君である。近々お許しもあろうに。

 ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の 影にまかせて  上皇

 この館に早や3年、すでに中宮はご帰京を許され、出家していた。綾川沿いにさかのぼり、鴨川を経て約6km南、国司庁の西隣の鼓岡(つづみがおか)に建立した質素な木ノ丸殿(このまるでん)に御遷なった(崩御後、小さな祠を建てて、鼓岡神社として祀られた。1913(大正2)年に上皇750年祭に合わせ、神社の石段を登った右手に記念建造物、擬古堂(ぎこどう)が造られた)。御警固役の高遠は、娘の綾の局を崇徳上皇に奉侍させる。ここに皇子・顕末(高俊)誕生す。綾家は菊の御紋章を許される。その末裔は今日でも「ひともと菊」の紋章である。
 木ノ丸殿における上皇の生活は罪人・幽閉のお身分なるが故、遠出は許されず、多くの詩歌を詠んだ。残存せる秀歌百余。

 啼けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす  上皇

 

 これを聞いたホトトギスが、自らさえずるのをやめたとの言い伝えで、この地はなかずの里と呼ばれた。
 いつか平安京に帰ることを願って、仏道に専念、五部大乗経の写経の大作をつくる。朝廷に免罪帰京を懇願し、この写経を仁和寺(にんなじ、京都市)に納めてもらおうと上程するも、小納言入道信西(保元の乱の最高指導者)によって天皇は拝見もできず、上皇のもとに返送される。上皇は大変悲しまれた。このお経は、後に上皇の子、元性法印の手で保管されたと吉田経房の日記『吉記』に書かれている。
 お経が送り返されてからというもの、上皇は食事をあまりとらず、髪もとかず、爪は長く伸ばし放題にしていて、その様子は天狗のように恐ろしげだった。
 最早、上皇は帰京の望みも絶え、「議親の令」に背いた御弟・後白河天皇のお心こそ憎しみ深きものであると、怒り狂い、これより大魔王となって……世の大平を見ては戦乱となし、人の幸せを見ては災厄とせん……。
都より、小河侍従入道隆憲蓮如が木ノ丸殿を尋ねるも、上皇再会せず。

 朝倉や 木の丸御殿に入りながら 君にしられで 帰る悲しさ  蓮如

 返歌  朝倉や ただ徒(いたずら)に帰るとも 釣りする海士(あま)の 音をのみぞ啼く  上皇

 又、平康頼も朝命により、讃岐に下り近況調査して、天狗のような上皇のお姿に殺気を覚え、急いで都に帰り報告する。

 崇徳上皇の死因については、『保元物語』や『平家物語』等に特記されていないので、定かではないが、江戸時代の地誌である『讃州府誌(さんしゅうふし)』には、後白河院政・二条天皇が讃岐の土人に上皇暗殺の命を下したことが記されている。
 1164(長寛2年)8月26日、土人は青馬に乗り数十名の部下と共に、木ノ丸殿を襲撃。上皇はこれを逸早く覚って裏門よりかけ下った。北方約1kmの老柳の木の朽ちて空洞になっているところに隠れたが、その姿が池の水面に映り、見つかって刃にかかった(現地を府中町柳田と称する。JR予讃線沿いに小さな石碑が建っている)。その後、この地に柳を植えても、枯れるばかりで決して育たなかったそうな。恐ろしくもいとあわれなり。享年46歳。
 崇徳院は天皇18年、上皇14年計32年間の御在位、鳥羽院政のため、政(まつりごと)は殆ど出来なかったとか、かえすがえすも無念なことである。

 

 夏の暑い時期で、都からの指示を待つ間、御遺体は一旦、古来から霊水と伝えられる野澤井(のざわい、西庄町八十場の清水付近)の冷泉に浸された。そこから霊木に神光があり、白峰宮を建立(その後、第79番札所、高照院、天皇寺と白峰宮が境内を共にして崇徳上皇を祀っている)。朝命を待つこと21日間。その後9月16日より2日間かけて、国司庁の役人と住民に見送られて、18日、人里離れた寂しくも、恐ろしい白峰山上の稚児が嶽にて荼毘される。朝廷の使者も参列も供物も弔意もなく、全て讃岐国庁の責任で行われた。そこに「白峰御陵」がつくられる。
 その後、疫病が流行り、都が大火にあったり、度重なる飢饉や洪水で社会が不安定になると、人々は崇徳上皇の祟りだと恐れた。日本最強級の怨霊と言われる所以となる。

 時は随分と流れ、1868(慶応4)年、第122代明治天皇は即位に際し、大納言を勅使として讃岐へ遣わして崇徳上皇の神霊を京都へ奉還し、「白峯社」を京都市に創建した。
1964(昭和39)年は崇徳上皇崩御から800年目にあたり、第124代昭和天皇は、白峰御陵に勅使を遣わし、式年祭が執り行われた。
つまり、崇徳院の御霊が都に帰るのは明治になってからなのである。その間なんと約700年なり、あゝ何をかいわん。

 去る平成3年4月のある日、白峰寺と白峰御陵へ妻と参詣せしとき、一輪の白梅をみて、真に恥ずかしながら駄作の一つ。

 白峰の 露と消えませし上皇の 御陵に漂う 白梅の香  昭山 合掌

崇徳上皇略年表

1119(元永2)年 年鳥羽天皇の第一皇子として誕生(実の父は鳥羽天皇ではなく、白河法皇である)
1123(保安4)年 5歳で天皇に即位
1129(大治4)年 白河法皇崩御。鳥羽院政始まる
1141(永治元)年 鳥羽上皇の命令で、弟で3歳の近衛天皇に譲位
1155(久寿4)年 近衛天皇が17歳で夭折、弟で29歳の後白河天皇が即位、鳥羽上皇崩御
1156(保元元)年
7月11日
保元の乱
7月23日 後白河天皇との戦いに敗れた崇徳上皇、讃岐に流される
8月10日 崇徳上皇、松山の津に着き、雲井御所に入る
1158(保元3)年 崇徳上皇、鼓岡の木ノ丸殿に移る
1164(長寛2)年
8月26日
崇徳上皇、46歳で崩御、野澤井の清水に浸される
9月18日 崇徳上皇を荼毘に付し、白峰御陵をつくる。二条天皇、八十場に白峰宮をつくる
1177(治承元)年 朝廷、崇徳上皇の魂を慰めるため、諡号(しごう、上皇・法皇の尊号)「崇徳院」を贈る。(それまでは讃岐院と呼ばれていた)